2013/11/16

人は自分の死にどのように向かい合うのだろう。

 人は自分の死にどのように向かい合うのだろう。ときどき僕は、血液脳関門は肉体だけでなく、感情にもあるではないかと思うことがある。たぶん僕たちの心の中には、本当にそうせざるをえなくならない限り、死を受け入れることを妨げる、防御メカニズムがあるに違いない。
脳手術の前の晩、僕は死について考えた。僕は自分の一番重要な価値観とは何かを探り、自分に問うてみた。もし死ぬのであれば、徹底抗戦して死ぬのか、それとも静かに降伏するのか。自分のどんな面を人に見せて死にたいのか。自分に満足しているのか。これまで人生で何をしてきたのか。僕は本質的には良い人間だと思う。もちろんもっと良くもなれたが。でもそれと同時に、癌はそんなことまったく気にしないこともわかっていた。
僕は何を信じているのだろう。僕はあまり祈ったことはない。強く希望したり、強く願ったりしたことはあったけれど、祈りはしなかった。子供のころに、宗教に関しては疑問を抱くようになっていたが、いくつかはっきりとした信念を持っている。簡単に言えば、僕は、自分が良い人間になる責任があると信じているし、勇敢で正直で勤勉で高潔な人間になろうと努力もしてきた。その上、家族にやさしく、友人に誠実なら、そして社会にお返しをし、嘘をついたりだましたり盗んだりしていないなら、それで十分だと思った。もし世の終わりに裁かれるなら、僕が本物の人生を生きてきたかどうかで判断してほしい。ある書物を信じているかどうかや、洗礼を受けているかどうかではなく。もし本当に「神」がいるなら、僕の人生の終わりに、「でもお前はクリスチャンではなっかったではないか。だから地獄へ行くのだ」なんていうことは言ってほしくない。もしそう言われたら、僕は答える。「どうぞご勝手に」
僕は医師と薬を信じる。アインホーン医師のような人は、信じるに値する人だ。二十年前に志をもって実験的治療法を開発し、それが今、僕の命を救ってくれる。彼の知性と研究に対する、世間の評価を信じる。
僕は信念と科学の間の、どこに線を引けばいいのかわからない。でもこれくらいはわかっている。僕は信じることを信じる。そのすばらしさゆえに。どこを見渡しても希望のかけらも見えないとき、あらゆる証拠が僕に不利なときに、信じること、明らかな悲劇的結末を無視することーーーそれ以外にどんな選択があるというのか。僕たちは毎日信じることで生きている。僕たちは自分で考えているよりずっと強いのだ。そして信じることこそ、もっとも雄々しい、人類が太古からもっていた、人としての特質なのだ。人間は、この人生の短さを救う良薬はないし、死ぬべき運命に対する根本的療法もないのを知っている。そんなとき、信じることは勇気の一つの形だ。
自分自身を信じ続けること、医師を信じること、治療を信じること、自分が信じると決めたことを信じること、これが一番大切なことなのだ。そうなのだ。
信じることがなければ、僕たちは毎日、圧倒されるような運命の中に、素手で置き去りにされるようなものだ。そうなれば運命は僕たちをうち砕くだろう。世にはびこる負の力に対し、僕たちはどうやって戦うのか、じわじわと忍び寄る冷笑的態度(シニシズム)に、毎日どうやって立ち向かうのか。癌になるまで、僕はわからなかった。人生の真の危機を招くのは、突然の病や天変地異や最後の審判ではない。落胆と失望こそが人を危機に陥れるのだ。僕にはなぜ人々が癌を恐れるのかがわかる。癌はゆっくりと避けられない死であり、これこそがシニシズムと失意そのものなのだ。
だから、僕は信じる。

It's Not About the Bike
Lance Armsorng with Sally Jenkins

ただマイヨ・ジョーヌのためでなく
安次嶺佳子=訳

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